葦は手折られない

日本のどこかで息づく女 ダイエットのこと、思うこと

処女喪失、という言葉。

 

処女喪失、という言葉。

 

何をもって喪失という言葉を当てはめたのか、その理由は定かではないが、バージンロードを白いウェディングドレスで歩けるのは正式には処女の女性だけらしいし、白無垢の短刀は貞操が危うくなったら自害するためのもの(どう考えても相手がクソ)らしいし、どうやら我々はそれを守り抜かないといけないっぽい。

知ったこっちゃねえよ、と思う。

 

 

こう言うと「さぞ遊びまわってる女なんだろうな」と思われそうだが、クラブどころか合コンも行ったことないし、セフレもいない。グレずに大学だってちゃんと行ったし、20歳まで処女云々の前にお付き合いした人もいなかったし、男子に最後まで名字+さん付けで呼ばれる委員長キャラだった。

 

たぶん100人はいるんじゃないかな。もっとかな。

私の身体を知る人に、私の名前を知る人はいない。

匿名の、あいまいな笑いを浮かべた、半分商品半分人間、風俗嬢としての私だ。

風俗街のビルの中、湯船とベッドと悪趣味な色のタオルに囲まれて置かれている商品だ。

 

「はじめまして、今日は来てくださってありがとうございます。暑いですね」

にこやかに商談でも始まりそうな、そんな会話の数分後、初対面の男女はキスをして、裸を晒して、あろうことか性行為に及び、60分とか90分ひとしきりヤったのち、何事もなかったかのように他人同士に戻る。女性の方は静かにまた陳列棚…部屋に戻り、次に手に取られるのを待つ。

なんともインスタントだ。コンビニのメロンパン200個分の値段で、我々は売られている。

 

時間になれば、そのきっかり半分を封筒に入れられて渡され、仮初めの名札を脱ぎ捨てる。ぴったりと体に張り付いたドレスを脱ぎ捨て、終電に駆け込んで、タクシーに乗り込んで、身を沈めて、初めにふっと息を吐くとき、我々は生き返る。にんげんに、戻る。

 

 

私の処女喪失は、そんな場所だった。

彼氏の家でも、連れられて行ったらやたら内装が豪華だった人生初のラブホテルでもない。

何千何万回と少女が売られてきた、ほこりっぽいベッドの上だった。

何年何月何日かも、名前さえ知らない相手の顔も、もう忘れてしまった。

 

ヤバいよ。こんなの強烈なコンプレックス形成待ったなしじゃんね。

まあこんな事をブログに書く時点でお察しだが、強烈なコンプレックスは強烈な優越感に結びつくことがしばしばある。「他人とは違う」ということを、アイデンティティにすり替えて、「特異性」たるレアアイテムを手に入れる。ファッションリスカと何ら変わりない。

 

貞淑でまじめな女性の、裏の顔。

ネット漫画でヒットしそうなコンテンツだ。多分アダルトビデオの棚に履いて捨てるほどある。消費されるために生まれたようなコンテンツ、それが「そのものとして価値がある」ことと同義でないのは自明だ。顔が整っていて演技が上手くてスタイルが良ければいいのであって、外側はタケウチリョウマでも、アラタマッケンユウでも、スダマサキでもいい。可愛くて握手を嫌がらなくて歌が歌えて文句を言わずに笑っていればいいのであって、アキハバラでも、ナントカ坂でも一向にかまわないのだ。

 

 

つまり、単に手垢のついた人間ぽっちだ。

 

 

 

そんなわけなので、好きな人とセックスしたことは、ないに等しい。

それはつまり、人間としてのわたし、本名のわたしは概念上処女だと言って差し支えないと思っている。この拗らせ方はどちらかと言うと童貞だが。

私が思うに、処女とは膜だの性器の出入りだの、そんなくだらないものは基準にならない、もっと概念的なものだ。個であり続けることは前提として、他者と一時的に深い共有を試みる、それが成長段階としての処女喪失、なのではないかな、と思う。

黒歴史よりおねしょの秘密より深く、なけなしの個性らしき服で包み隠している、肉体というものを晒すのだ。そこには欲も汚さも習慣もちゃんとある。温度、目線、声、息遣い、表情、ボディタッチ、およそコミュニケーションに使いうる全てをもって、信頼に寄りかかって行うコミュニケーションだ。延長というよりは総集編である。

セックスがそれほどご大層なものかは個人差が大いにあると思うが、それほどのものをインスタントに済まそうとすれば齟齬が生じるのは当たり前である。面識のない相手とあらゆる段階をすっ飛ばしていきなりコミュニケーションのラスボス戦に挑むわけだから。

風俗が悪いものだとは思わないが、それを受け入れてしまうのが仕事の我々を、ケガレ扱いしたくなる人々の言語化しがたい違和感は、ここからも来るのかもしれない。

 

 

おかげさまで男性観も貞操観念もバグってしまった人間だが、そのくらいのバグで人生はシャットダウンできないので、私は今日も働く。埃っぽい陳列棚で、SからLLまで業務用コンドームを揃えて、手に取られるのを待っている。

いや、我々をそんなに受動的に捉えられるのは癪だ。

我々はカネと引き換えに大小さまざまな齟齬を嚥下し、愛の5歩手前くらいまでの経験を売るエンターテイナーであり、プロなのだ。客が一人でもいればその時点で我々はプロなのだ。

 

 

見下されているのが分かっているから、睨みつける。

我々は同じ地平に立つにんげんであると。