寒いねと話しかければ寒いねと
「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」
言わずと知れた、俵万智さんの代表作の一つである。
この詩を初めて読んだ中学2年生の時、もちろん恋人なんていなくて、「友達とこういうやりとりがずっと出来たらいいな」って思っていた。友達の少ない、おさげメガネのいじめられっ子は、彼女のエッセイをぼろぼろになるまで持ち歩いて読んでは、水よりもするりと心を通り過ぎる言葉と万智さんのたんぽぽみたいな愛らしさに焦がれたものだ。
「風俗嬢が文学なんてキレイなもんに言及するな!」みたいなのは知らん。私は万智さんの作品が好きだ。
昨日の21時半ごろ、強烈にこの詩を思い出した。
接客の終わりだった。
いつも通り淡々と消費されて、頭は空っぽで、体は不快な摩擦と湿度に耐えていた。
とりあえず満足したっぽい相手が背を向けたとき、ふと、呼びかけようとして、
呼べる名前がなにもなかった。
「お客さん」「お兄さん」じゃない。過去にお付き合いした男性でもない。家族や友達でもない。
呼びかけたい誰か、誰もいない、身体を重ねても、呼ぶ人はいない。
虚しさを呑み込んで金を得るのが仕事だから、今まで気にも留めなかった「寂しさ」という感情が、突然強烈に襲い掛かってきた。
「なんでもないですよ」と言って、気持ち程度に笑った。そんな感情、相手には関係ないもん。
「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」
ああ、だから寒いのかと、思った。
他人と他人と他人と他人がたまたま近くに生息するだけのこの世界に、味方なんてものがいるとすれば、それは家族とか友達とか、特定のグループの事じゃなくて、
「生きてるよ」って知っててくれる人のことだ。
一人では持て余す感情を、そうなんだねって受け止めてくれる人のことだ。
嬉しさも寂しさも、どうせ心の外側へは1%も出ていけないのだから、自分で面倒見てやるしかない。でも、「わたしがわたしとして生きているよ」って、必要な情報として受け取ってくれる人のこと、代替不可能性がほんのちょっとでもあること、それによってわたしたちは、やっと安心できるから。
わたしはわたしたりえるから。
その危うさを餌にする、依存症の虫けらどもは、自分で自分の面倒も見られないならどっか行けよ。
ここには何もないぜ。